コラム 見沼たんぼを歩いて

 鶏達と暮らし自然と関わりながらも、この頃は白梅のつぼみと萼の高貴な色合わせを愉しむ余裕もなく過ごしています。見沼の畑で焼けた肌に見事な動きで農作業に勤しむ姿に、あれほどプロフェッショナルな仕事が出来ているだろうかと、今日一日離れているのが恥ずかしくなりました。4月の頃はあめ色に透ける若葉に、香り立つ土の匂い、それらが雨と共にやってきます。
 
 日常を離れると視界がひろがって心が洗われ、細やかな気づきや自由な心の動きが生まれます。そんなひと時、大空の上から見下ろすイメージを想像したり、空気の微かなかおりを愉しんだりします。
 無理なく距離を歩く「すいすいウォーキング研究会』に参加させて頂いて、お台場とレインボーブリッジに続く「見沼代用水 名残桜20kmコース」を無事に歩く事が出来ました。戸外を歩く事を失念していた顔は、帽子を被っても反省会の会場に着く頃には真っ赤に日焼けしていました。
 
 すいすい法をマスターするのは難しく、イメージしながらも上手くいったかはわかりません。前回は11kmで脚が痛くなりリタイア。今回は平田さまとご一緒させて頂いたので、お喋りに花が咲き過ぎ、「前にもう少し早く歩くように言おう」という言葉にハッとする場面も。途中リタイアできそうもないルートが幸いしたのか、長距離を歩く事に慣れていらっしゃる平田さまとの並歩が幸いしたのか歩き通すことが出来ました。
 
 集合場所のさいたま新都心駅は、新宿から約30分。広々として現代的な駅舎に東京都心と変わらぬビル群。スターバックス。アート。現代の典型的な街から、見沼たんぼ地区にはいると風景が一変します。
「田んぼ」を期待すると目に飛び込んで来るのは、畑、家庭菜園、造成地。眺めながら、田んぼの痕跡を探します。武蔵野台地は「武蔵野うどん」に代表されるように、昔から水稲ができず、小麦が栽培されていました。武蔵野うどんと名づけられたのは後の事で、武蔵村山だけでなく、小麦しか採れない関東一帯ではうどんが晴れの食事でした。ですので農村では、うどんが打てなければ嫁に行けませんでした。小麦を石臼で轢くところから始まり、とても手間のかかる仕事です。
 
 武家や町衆の食糧として、江戸の町の周辺で米を作る必要があったことは想像に難くありません。江戸の民が白米を好んで脚気になった話などから推察すると、米はまず不足しなかったように思われます。見沼を江戸幕府が田圃に開拓したのは、そのような歴史風土を背景とするものでしょう。
 水稲の栽培が身近でなかったので、田圃と水を引く仕組みは驚くべき知恵と努力の結晶に感じられます。でも田圃は努力だけではできないようです。土地には建物が建ってしまうとわかりにくくなってしまいますが、平らな土地というものはありません。最近はGoogle マップの航空写真でも地形を推測することができますが、国土地理院の「地理空間情報ライブラリー」では撮影年代別の航空写真や古地図などが検索できるようになっており、地形や時代変化を見ることができ楽しいものです。さいたま市作成の「見沼たんぼホームページ」 (http://www.minumatanbo-saitama.jp/agriculture.htm) では詳しい情報が掲載されていますが、古代東京湾の入江だったのが隆起して沼が点在した地域。水利があり周囲より低い土地を田圃に利用しているのです。それでも水路を引き、充分な水が行き渡るようにする迄にはどれだの苦労があったのか計り知れません。田圃より一段高いところに土手を築き、用水が流れていることに驚きます。そしてその美しかった景色が畑に変わったのはお米を食べなくなった私達、都市住民の事情なのだという事にじくちたる思いです。農業や自営業の気持ちで先人の苦労を推し量ってしまうと、遣る瀬ない気持ちになる事があるのです。美しい自然の風景が田圃に変わった歴史を想うとしかたなくも、いま見沼が保全地域として認識されていることにホッとします。
 
 東日本大震災を経、近年の多くの災害を教訓として、また持続可能で人口減少社会の豊かな都市環境とは何かに行政も目を向けるようになりました。見沼たんぼ地区も「長い間、水田として維持されてきた見沼たんぼですが、1950年代に入り、高度経済成長期をむかえると、東京都市圏の拡大に合わせて開発の圧力が高くなり、一部で住宅建設や学校・道路など公共施設への土地利用の転換が行われるようになりました」(見沼たんぼホームページ)と開発の危機に晒されたと書かれています。『農地は誰のものか?』というNHK特集番組が作られるほど、都市に住居を求める人々との軋轢が高まった時代です。
 何かを破壊してしまうのは簡単ですが、見沼を開拓し、管理維持するのは大変な労苦だったろうと思います。自然環境は複雑な調和を保っており、だからこそ人もそこで暮らしていけるという事に気づき、やっと一歩を踏み出した、今はそんな時代ではないでしょうか。明るい光の下、環境整備に努める生徒や先生。手入れされた竹林。見沼たんぼの保全に時代の変化を感じながら歩きました。
 
 桜も人も美しい刻だけに目を向けない。そんな心持ちで生きられたら。てくてくの一期一会に感謝して気持ちの良い1日を頂きました。

コラム 雑穀の残る暮らし

2月16日に西荻窪のかがやき亭でお話しさせて戴いた「武蔵野うどんをとおして考える農と食卓」に資料を提供して下さったフィールド・ワーカー(民族植物学・人々と植物の関わり)、川上香さんの「雑穀の残る暮らし」というイベントに行ってきました。

東中野から徒歩5分程。Soleil(ソレイユ)というフレンチのお店で、雑穀を使ったランチを戴きながらお話を伺いました。

長野県遠山郷(旧上村、旧南信濃村)、静岡県静岡市葵区井川(旧井川村、旧田代村)、山梨県早川町を中心とした雑穀の残る暮らしです。昔、我が家でも雑穀を栽培。両親は「こどもの頃、雑穀の入った弁当を持って学校に行くと、もう周りは白米で恥ずかしい思いをした」と言います。第二次世界大戦中から戦後間もなくまで食べていた雑穀飯はおおよそ大麦とモロコシの入ったものだったそうです。
武蔵野うどんの際に昔の食事を聞き取りました。

武蔵野台地は河川周辺などの一部を除いて稲作に適さず、穀物は麦を栽培していました。物日(行事のある日)にはうどんを打って食べる習慣がありましたが、粉を挽いてうどんを作るには時間と手間がかかります。ですので日常は雑穀飯を食べていました。雑穀はコメや麦と違い、穂のままで保存すると何十年でも持つと川上さんは言います。麦も採れない天候不良の時には命綱だったはずです。

いまは健康にもよいと人気の雑穀。ランチもとても美味くいただきました。「モロコシの餅なんて冷めたらとてもじゃないが不味くて食べられない」。父世代には貧乏のイメージで語られます。平地で農業をする者にはまねの出来ない自然と向きあうその暮らしに、生きることの厳しさとタフさ、そして精神の強さを感じました。

川上さんのブログ
Cafe穀雨 農と食と人のこと

コラム 鶏について 1日1個?

暫くぶりに天気が良くなりました。
明日は鶏舎の掃除をします。

秋雛の写真をアップしようと思いながら手が回らず。また火曜日からは雨が続くようです。どんどん大きくなって鶏舎を移動していかなくてはならないのに、このお天気には困ったものです。

”鶏は1日に何個、卵を産むのですか?”

と時々、ご質問を受けることがあります。鶏を飼っていると少し不思議に感じる質問です。何故そう聞かれるのか、どうお答えしたものか考えてしまいます。卵は物価の優等生。1日に幾つも生み続けるから、安いの?と思われるのでしょうか。深い意味はないのかもしれません。

卵の値段が安いか高いかは別にして、鶏が卵を産むのは本来、種の保存のためです。私も女性ですので「にわとりさん大変ね。いつもありがとう」と思ってしまいます。鶏の祖先と見られている赤色野鶏は、年間30〜60個の卵しか生まないようです。それが先祖だとすると、長い長い人間との暮らしの中で産む数が増えるように改良されていき、今は育種会社が掛け合わせて、産卵率がよいようにとか、病気になりにくい強健な体質とか、平飼いに向くおとなしい性質等の鶏を作り出しています。

私は後藤孵卵場の後藤360という鶏がおとなしく平飼いに向いているので、気に入って選んでいます。産卵率は70%前後、つまり10日に7個程度です。1羽1羽が6日生んで1日休むなど、周期を持って産んでいるのです。それでも産み始めて1年も経つと産卵率はどんどん落ちて、ほとんど産まなくなり羽が抜け変わります。体質が改善されてまた生み始めるのですが、以前ほどは産むことはないので、経済的にはこのあたりで廃鶏になります。

たった1年半程度、その時間を如何に過ごしてもらうかが、”たまご”という結晶となるのだと思います。毎日毎日思うようにはできないこともありますが、そう願いながら鶏たちと過ごします。

注)2004年の記事を編集して掲載したものです。現在は後藤孵卵場の「後藤もみじ」という鶏種を飼養し、年間産卵率も84.6%あります。(株式会社後藤孵卵場ホームページより)